田沼時代の「終焉」を招いた田沼意知の最期
蔦重をめぐる人物とキーワード㉒
■庶民に冷ややかに見られた刃傷事件
田沼意知は、1749(寛延2)年、老中として権勢を誇った田沼意次(おきつぐ)の長男として生まれた。1781(天明元)年に奏者番に任じられ、1783(天明3)年には若年寄へ昇進。譜代大名が就くことの多いこの役職に異例の抜擢であり、意次が意知を後継者として政権の中枢に組み込もうとした意図がうかがえる。
意知の若年寄在任は短期間に終わったため、政治的な実績はほとんど残っていない。ただし、当時来日していたオランダ商館長ティチングは、著書『日本風俗図誌(Illustrations of Japan)』の中で田沼政権を肯定的に記しており、将来を嘱望される人物として意知にも触れている。
意知とその父・意次が築いた政権は、1767年から1786年にかけての「田沼時代」と呼ばれる。幕府財政の立て直しを目指し、年貢中心の体制を見直して営業税の徴収や株仲間の公認を進め、貨幣経済の活性化を図った。だがその一方で、商人との癒着や賄賂の横行が批判を集め、庶民の不満がくすぶっていた。
そうしたなかで発生したのが、1782(天明2)年から続いた「天明の大飢饉」と、1783(天明3)年に起こった浅間山の噴火である。凶作と天災が民衆の暮らしを直撃し、社会不安は極限に達していた。
このような政治的緊迫のさなか、1784(天明4)年3月24日正午頃、江戸城本丸中の間で登城中の意知が、旗本・佐野政言(さのまさこと)に突然斬りつけられる事件が起きた。意知は手当てを受けたが、傷が深く、4月2日に死亡。享年は数えで36だった。
この刃傷事件については、当時の幕府の取り調べでは政言の「乱心」とされたが、個人的な恨みが動機とされる説も根強い。政言が田沼家に出世の働きかけをして退けられたという証言もある。また近年では、田沼政権を快く思わぬ勢力による陰謀の一環とみる見方も出ている。斬りつけた刀に毒が塗られていたとする風聞も残るが、信憑性は定かでない。
この事件に対する庶民の反応は冷ややかだった。意知の葬列に石を投げる者や、「天罰」と揶揄する声が上がる一方、政言は「世直し大明神」と称賛されるなど、民衆の感情は田沼家に対し、極めて厳しいものだった。
後継者と目していた意知の死は、父・意次に少なからぬ打撃を与えた。意知の死を境に意次の政治的基盤が揺らぎ始め、1786(天明6)年8月に意次は老中職を罷免。後ろ盾となっていた将軍・徳川家治(とくがわいえはる)が翌月に病死したことで、意次の失脚は決定的となった。
後任の老中には意次の政敵だった松平定信(まつだいらさだのぶ)が就任。1787(天明7)年から寛政の改革が始まると、意次らが進めていた商業優先策は次々に一掃され、倹約と農本主義を基調とする体制へ転換された。
田沼意知の死は単なる個人の悲劇にとどまらず、「田沼時代」が終焉に向かう端緒となった、歴史的に重要な契機となったのである。
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